ここまでの話を読むと「酒石酸で謎が解けた」と思うかもしれません。ただ、論文自身の言葉遣いは、実はもっと慎重です。タイトルにも"proposed toxic principle"(提唱されている毒性物質)とあり、結論部分でも「酒石酸とその塩類が原因である可能性が高い」という言い方にとどまっています。断定はしていません。
酒石酸そのものに犬の腎臓への毒性があることは、実は20世紀前半の古い実験ですでに確認されています。ロッシェル塩(酒石酸ナトリウムカリウム)を体重1kgあたり400mg与えると尿細管壊死が起き、600mg以上でより一貫した腎障害が確認された、という報告です。ただしこれは「酒石酸そのものに腎毒性がある」という一般論であって、「ぶどうに含まれる量の酒石酸が、実際の中毒例の直接の原因である」ことまで証明したものではありません。
未解明の点も残っています。ぶどうの酒石酸含有量は品種・熟度・産地によって0.35%から2%までばらつくため、同じ量を食べても発症する犬・しない犬がいる理由の一端は説明できるかもしれません。加熱調理したぶどうやレーズンは中毒を起こしにくい、という経験的な観察もありますが——これは動物中毒管理センターの未公表データによるもので、正確な加熱温度・時間との関係は文献のどこにも見当たりませんでした。ぶどうジュースやジャム、ワインなど加工食品での中毒例がほとんど報告されていない理由も、製造過程で酒石酸塩が取り除かれる(脱酒石酸処理)ためではないかと推測されていますが、これも確定した話ではありません。そして、酒石酸がどうやって腎臓の尿細管を壊すのか——そのメカニズム自体、論文は「文献に記載がない」と正直に書いています。
ただし、手がかりがまったくないわけではありません。論文が挙げるのは、犬に同様の腎障害を起こすことが知られる別の有機酸・マレイン酸との類推です。マレイン酸は腎尿細管の細胞にあるNaK-ATPase(細胞のエネルギー代謝に関わる酵素)の働きを妨げ、細胞のエネルギー源であるATPを枯渇させると考えられており、論文は「酒石酸も同様の機序を持つ可能性がある」としています。もう一つの手がかりになりそうなのが、酒石酸カルシウム——水に溶けにくいこの化合物自体です(後述のPlate1で、この物質ができる反応を構造式付きで紹介します)。古いラットの実験では、この酒石酸カルシウムが腎尿細管に沈着すること自体が腎毒性を引き起こすと報告されています。ただし話はそう単純ではありません。これは酒石酸の中でも人工的なDL体(ラセミ体)で確認された現象で、ぶどうに含まれる天然のL(+)体は、同じ実験条件では腎臓に蓄積しなかったとも報告されているのです。犬はそもそも酒石酸の吸収のされ方が実験動物のラットとは大きく異なるとされていますが、なぜ天然のL(+)体が犬の腎臓を傷めるのか、具体的な理由はやはり分かっていないのが実情です。