Digest — 犬に関する研究の記録 BC 特集 / No.003
Monograph 003/ BC 特集/ 2026.09.04

子どもと同じ論理で、犬は言葉を覚えていた

1,022語を覚えた犬、Chaserが示した論理

Specimen
原著論文
Border collie comprehends object names as verbal referents 著者 John W. Pilley, Alliston K. Reid
所属 Alliston K. Reid:Wofford College, Department of Psychology(サウスカロライナ州、米国)。John W. Pilley:論文内に所属機関の記載なし
掲載誌 Behavioural Processes, Vol. 86, Issue 2 (2011年2月・査読あり) DOI 10.1016/j.beproc.2010.11.007 →

ボーダーコリーを飼っていると、一度は感じたことがあるかもしれません。「この子、なんか話が通じている気がする」と。「おやつ食べよっか」と言えば遠くにいても飛んでくるし、雨の日に「今日は散歩なし」と言えば、抗議のまなざしを向けてくる。でも、それは本当に「おやつ」や「散歩」という言葉の意味を理解しているからなのか、毎回同じ場面で使われる決まり文句に反応しているだけなのか——考えてみると、はっきりしません。しかし、それでも「本当に言葉として理解しているんだ」と思ってしまうのが飼い主心というものです。

2011年に報告された、あるボーダーコリーの記録は、この感覚に一つの手がかりを与えてくれます。名前はChaser。生まれて一度も耳にしたことのない言葉を、たった一度聞かされただけで、正しく言い当ててみせた犬です。

§ 01

Chaserというボーダーコリー

Chaserはアメリカ・サウスカロライナ州に暮らす一頭のボーダーコリーです。Pilley博士が生後8週から訓練を始め、3年にわたって毎日4〜5時間、ひたすらおもちゃを使って遊び続けました。

訓練の報酬は、フードよりも遊びが中心でした。撫でる、注目する、引っ張りっこ、ボール追いかけ、フリスビー、アジリティ——Chaserが喜ぶ活動そのものを報酬にしたのです。新しい名前を教えるときは、物体を手に持ちながら「Chaser、これは○○。かくすよ。Chaser、○○を見つけて」と語りかけ、1回のセッションで名前を20〜40回繰り返しました。語彙学習に本腰を入れたのは生後5ヶ月から。地道な反復の積み重ねでした。

3年後、Chaserが識別できるおもちゃの名前は1,022個に達していました。それまでの犬の語彙記録——同じくボーダーコリーのRicoが持つ200語以上註1註2——を、5倍以上も上回る数字です。

ただ、1,022という記録の数字だけが、この研究の核心ではありませんでした。

§ 02

「除外学習」という実験

この研究の本当の核心は、教えられたことのない言葉に、Chaserが出会ったときにありました。

実験はシンプルです。隣の部屋に、8つのおもちゃを置きます。7つはChaserがよく知っているもの、1つは生まれて一度も見たことのない、まったく新しいおもちゃです。

Pilley博士がChaserに、聞いたことのない名前を呼びかけました。このときおもちゃは、博士のいる部屋には置かれていません。別室から名前を呼びかけ、Chaserだけが物体のある部屋で選ぶ——研究全体を通じて、Pilley博士たちはこの形を徹底していました。もし同じ部屋にいたら、博士が無意識に視線を向けたり体を傾けたりして、正解を「教えて」しまうかもしれません。20世紀初頭に「計算できる馬」として話題になったクレバー・ハンス註3は、実は人間の微妙な動作を読み取っていただけでした。その轍を踏まないよう、視覚的なヒントをゼロにして、音声だけで判断させたのです。

Plate 1Border's Digest 作図 — Pilley & Reid, 2011の実験設計をもとに

除外学習実験の手順——1日1回、8日間繰り返す

01まず、Chaserがすでに知っているおもちゃを2個、名前を呼んで持ってこさせる(ウォームアップ)
02続けて、博士がChaserに、聞いたことのない名前を呼びかける
03声だけがChaserに届く。視線・身振りのヒントはゼロ
04Chaserが論理で正しいおもちゃを選び、博士のいる部屋へ持っていく
結果 8日間中8日間で正解。最初の2日は追加の声かけが必要でしたが、残り6日は追加の声かけなしで成功しました(偶然にこの結果が出る確率はP=5.96×10⁻⁸)。

Chaserは考えました。自分が知っているおもちゃの名前ではない。ならば、自分が知らないおもちゃのはずだ——。この推論は、毎回的中しました。この論理は認知科学で「除外学習」と呼ばれ、3〜4歳の幼児が言葉を覚える際に使うプロセスと、構造上ほぼ同じです。

§ 03

「理解」と「記憶」の境界線

この結果は科学界でも議論を呼びました。批判派の言い分はこうです——「これだけの芸当を見せても、結局は非常に高度な連想記憶にすぎない。それを『理解』と呼ぶのは飛躍だ」と。

心理学者Paul Bloomは、2004年のRicoの研究にも同じ疑問を投げていました——Ricoにとって「sock」は、ソックスという物体を指す言葉だったのか、それとも「ソックスを持ってこい」という一つの命令そのものだったのか。もし後者なら、それは単語の理解というより、決まり文句を丸ごと覚えているだけかもしれません。

§ 04

記憶だけでは説明できない、二つの証拠

この疑問に答えるため、Chaserはすでに名前を知っている3つの物体——「Lips」「ABC」「Lamb」——と、3つの指示語——くわえる・前足で触る・鼻で触る——を、ランダムに組み合わせたテストを受けました。9通りの組み合わせのうち、事前に訓練したものは一つもありません。しかも訓練者からChaserの様子が見えない、二重盲検の条件です。

Plate 2Border's Digest 作表 — Pilley & Reid, 2011の実験設計をもとに

指示語×物体名、14試行の結果

物体名くわえる前足で触る鼻で触る
Lips◎◎◎
ABC◎◎◎
Lamb◎◎◎

註 9通りの組み合わせから計14試行を実施(一部の組み合わせは複数回登場)。事前に訓練していないにもかかわらず、初回から100%正答(偶然の確率 P=4.37×10⁻¹⁴)。

物体名と指示語を独立した部品として扱い、初めての組み合わせにもすぐ正しく応じる——これは「sock」を丸ごと一つの命令として覚えていた、という説明では成り立ちません。

さらに踏み込んだ実験もあります。8個の「ボール」と8個のボールじゃないおもちゃ、合計16個の物体を部屋にランダムに配置し、訓練者が隣室から「ボールを持ってきて」「別のボールを持ってきて」と指示を出す——Chaserが典型例だけを連続して選べるかを見るテストです。「フリスビー」「トイ(おもちゃ)」でも同様に実施しました。

結果は3カテゴリーすべてで8回連続無失敗(各カテゴリーで偶然にこの結果が出る確率はP=7.77×10⁻⁵)。「ボール」は丸い、「フリスビー」は円盤形——ここまでは見た目の共通点でまとめられるカテゴリーです。ですが「トイ」はそうはいきません。形も大きさも素材もばらばらな物体を、「遊べるもの」という機能だけでひとまとめにする、一段抽象的な概念化が必要です。Chaserはこの「トイ」というカテゴリーも学習し、1つの物体に固有名・「トイ」・「ボール」(または「フリスビー」)という最大3つのラベルを同時に持たせることができました。

1,022語の記憶、指示語と名前の組み合わせ、トイという抽象的なカテゴリー、そして除外学習——四つの実験を総合すると、論文の結論ははっきりしていました。名前は、物体に向けた行動とは切り離して、物体そのものを指し示すことができる。Chaserがこれを理解していたことは「説得力のある証拠」によって示された、と著者らは述べています。

この結論は、当時の犬の認知科学を根底から揺さぶるには十分でした。「犬は条件付けで動いているだけ」という前提が、大きく揺らいだのです。

Border's Take — 編集手記

ものに名前をつけて、呼び続ける——地味だけれど今日から始められることばかりです。除外学習も、実は今日から試せます。愛犬がよく知っているおもちゃを2〜3個と、まだ触れさせていない新しいおもちゃを1個、同じ部屋に置いて、新しいおもちゃの名前を(適当な名前で構いません)呼んでみる。視線や指差しでヒントを与えないよう気をつけるだけで、意外と手軽に試せます。ただし1回だけだと偶然との区別がつかないので、何度も試すのがおすすめです。これを日々繰り返していけば、1,022語とはいかなくても、愛犬の語彙は着実に増えていくはずです。

実は、その「増え続ける」という前提を、Chaser自身が証明しています。32ヶ月間の毎月のテストで正答率は95%を切らず、覚えるスピードが落ちる気配すら最後までありませんでした。では1,022で記録が止まったのはなぜか——理由はChaserの脳ではありませんでした。Pilley博士は、76歳の誕生日を控えたクリスマスに、妻から「新しい犬が来るよ」と告げられたと、AKC(アメリカン・ケンネル・クラブ)の記事は伝えています。そこから毎日4〜5時間の訓練を、来る日も来る日も続けました。ぬいぐるみ800体以上、ボール116個、フリスビー26枚——1,022という数字が止まったのは、Chaserの限界ではなく、Pilley博士夫妻がそれ以上の時間を割けなくなったからでした。つまり、限界はChaserではなく人間側にあったというわけです。Chaserの語彙に、本当の天井があったのかどうかは、今では分かりません。分かっているのは、そこまで付き合いきった夫婦が、これまで一組しかいなかったということだけです。

Border's
出典